2009年09月23日

臼井皎二

臼井皎二

 臼井皎二が東洋醸造の前身、脇田酒造店へ入店したのは大正九年27歳の時です。

 それまで臼井は芝山小学校の首席訓導をしていました。入店間もなく従来の脇田商店が資本金五百万円の株式会社として、新発足することになりました。彼はその会社の新株募集に近村近郷を戸別訪問しました。小学校の教師から転向した臼井のこの姿を見て、村の人達は驚異の眼をみはりました。またある者は憐憫の情で見つめました。その頃の小学校教師は世の中から大いに尊敬されていたのです。それなのに何を好んで酒屋の丁稚に身を落としたのかと・・・・。

 しかし彼は損得を超越して仕事に熱中しました。その結果、新株募集に最高の成績をあげることができました。店主の脇田信吾はこの臼井の仕事熱心を大いに買いました。そして、間もなく彼は、新会社の庶務課長に抜擢されたのです。師範学校を卒業した臼井には酒に対する知識は皆目ありませんでした。そのため彼は毎日朝二時頃から起きて、醸造の原理、醗酵の実際について学びました。醗酵槽のかたわらに夜を徹して立ちつくすことが、五日も十日も続きました。幼少の頃に朝早く起こされて、漢学者の父親から論語を習わされましたので、早起きが習性になっていました。

 昭和22年五月、三代目社長となりました。社長になった臼井が計画し着手したのは、アルコール工業を中核とした総合多角経営でした。あらゆる生産をその工程に関連させて活用してゆきます。それは無から有を生ずることですらありました。東洋醸造は急ピッチになんでも屋に変わりました。清酒、合成酒、薬用酒からペニシリン、ロイコマイシン、ジアスターゼ、ハム、醤油の類にまで手を拡げました。しかもこれらは、全てその生産工程において結びつき、流れあって、ある物は原料となり、またある物はその培養体ともなっています。一滴の廃液もムダなく再生産化します。

 この多角化経営の理由として、戦地から帰ってくる兵隊たちに職場を与えなくてはなりません。大仁町や修善寺、長岡の青年男子の多くはこの東洋醸造に働いていました。それが帰還して、職場がなくなっていたというのではかわいそうです。設備も、機械も、何一つとして遊んでいるものがあってはなりません。全てのものが休みなく生産に回転されました。かくて新規事業はつぎからつぎへと拡げられました。

 臼井は東洋醸造の支配人時代から社長の今日まで、毎月もらう月給をさいて郷土の子弟の教育費にあてています。昭和33年の時点で、彼から学費の仕送りを受けたものは既に54名で、そのうち大学をおえたものが35名、後は専門学校です。しかもなお、今日も彼一人の力による育英事業が続けられています。このことについて伊豆第一の資産家といわれている人が、
「他人の子供にどんなにつくしてやっても、年賀状一本よこさない」
といいました。臼井はこれについて、
「私は、将来自分のために何かをつくしてもらおうという考えで人につくしているのではありません。学資の補助をしたものが卒業したら、ただ世の中の人のためになる働きをしてくれと二言いうだけです。後は自由に自分の好む道を歩いてゆけばよいです。決して私はその人物をわずかな援助で私の会社につなぎとめるようなことはしません」
といっています。

臼井はまた教育者として青年運動にも大きな関心をもちそれに協力しています。その第一は、日本ユース・ホステル協会の会長です。日本のユース・ホステル運動は、はじめ日本青年館の横山祐吉と、中山正男が山中湖の清渓寮で、
「日本にも、世界を友とするこの運動を起こしましょう」
と誓いあったのがはじまりで、はじめ平凡社の下中社長が会長になり資金も出ていましたが、その後臼井皎二が二代目会長になって運動資金の大半を受け持ちました。
 ユース・ホステル運動というのは、ドイツの教員シューマンによって起こされたのがはじまりで、カントの平和論のホスピタリティ(厚遇)からきています。
「旅人を厚くもてなす」
がその精神です。ユース・ホステルにはその後青少年の宿舎運動となって、旅行を通じ、宿泊を通じてその国の青少年と交歓し、地理、人情、風俗、慣習、歴史、産業、政治の全てを理解しあいます。
「その国を知って、その国の理解ある友人になります」
という運動になりました。この国際ユース・ホステル連盟には、37カ国が参加し、日本も29年八月に加盟を認められました。現在日本ユース・ホステル協会は、下中、臼井、中山、横山等の人物を中心に経営しています。この運動は26年に創立して八年になるが会員総数三万名契約ホステル(宿泊料一泊百円が原則)は230カ所となり、月々増加しつつあります。臼井皎二は昭和三十年の年頭につぎのような所感を述べています。

「かつて富士山をあこがれて日本を訪れた外人達は、日本の美しい自然にもまして、暖かな人情と、礼儀正しさと、親切さに心を打たれました。横浜埠頭におりたって、初めてみる人力車にゆられながらその車夫たちの親切さにまず感激したのです。汽車や電車のなかでも、老人や婦女子に青年たちは席をゆずっていたわっていました。外人たちは日本のことを(ミカドの国)といい、(東洋の君子国)といったのも故なしとしません。日本人の親切心というものは、外国人たちにとっては、秀麗な富士とともに一茎の美しい花でした。しかし敗戦後の日本はどうでしょうか。人のことはどうでもよい、おしわけ、かきわけ、自分だけよければよいという全く見るにたえない社会状態を現出しました。社会批判や思想討論は激しくやるが一片の親切心をつくすということに冷淡な有様です。それは政治界のみではない、経済界をはじめあらゆる社会面においても同じことです。果たしてこのまま日本の美しかった民族性も、敗戦とともに捨て去ってよいのでしょうか。私たちは今こそ一切の報いを求めない真心から発した親切運動を起こすべきときであると思います。私は現在、世界を友とするユース・ホステル運動の日本の会長をしていますが、私はユース・ホステルの会員たちに次のようなことをいいたいです。今度、日本がユース・ホステル国際連盟に正式加入しましたので、今年から言葉のわからない、習慣も違う、外国の人たちが、ぞくぞくと日本を訪ねてくるでしょう。その時、何をもって外国の方方を迎えたらよろしいか、それは真実のこもった親切心のあふれた笑顔をもって迎えることです。私は言葉も、習慣も、民族も異なる外国人であっても、真心こもった親切心をもって接すれば、魂と魂はきっと固く結ばれるであろうということをかたく信じます。日本の再建にとって一番大切なものは、この親切心であるということを強く申し上げたいです」

 この運動はようやく政府の認めるところとなり、昭和33年皮予算に一億円の専有ホステル建設費が計上されることになりました。一億円の内訳は文部省の「青年の家」に六千万円、運輸省は四千万円です。なお自民党はその青年政策の第一にこのユース・ホステル運動を掲げています。

 臼井がながいあいだ培い育ててきた、ユース・ホステルも、昭和33年になって、その基盤ができたといってよいです。それは政府が、この運動の重要なことに気づいて、同家予算となってあらわれたことがその一つであり、もう一つは、日本において国際ユース・ホステル連盟、初の地区会議が開催されて大きな成果をあげたことです。元来、ヨーロッパで発生したこの道動は、ヨーロッパ中心となりがちで、勿論アメリカ大陸や、アフリカ大陸、太平洋地域にもこの道動が拡がってはいましたが、それでもヨーロッパに比べれば強力なものではありませんでした。

 殊にアジアにおいては国際ユース・ホステル連盟の会員国は、中近東においてイスラエル、東南アジアではパキスタン、インド、日本であり、最近マラヤ、レバノン、ギリシャ等に協会が生まれたという実情です。このような状態のなかで、日本がアジア会議を催すことは相当の勇気を必要とし、またこの会議の成否を心配するものも相当多かったのです。しかし会長臼井皎二をして、この会議を開催する決意をかためたのは、アジアにおける真の青年の友好、親善の実現は、この運動をおいてないという確信でした。

 かくて昭和33年の四月25日から五月七日までの二週間にわたって、日本は招待国としてこの会議を開催しました。国際ユース・ホステル連盟よりは事務総長ロバート・オルセン氏が来朝し、ホンコン、タイ、カンボジア、マラヤ、インド、イスラエルの他にニュージーランド、イギリス、ドイツよりも参加して11カ国25名の代表は、神戸、大阪、奈良、三重、愛知、神奈川、東京、栃木と連日移動しながら見学と会議を行いました。特に参加国の代表はカンボジアのキム大蔵大臣、インドのカピール科学大臣夫人、タイのヴイスドセマナ体育局長、イスラエルのカツ法学博士等の名士揃いで、実のある権威にみちた会議でした。

 臼井は日本の会長として各国代表の労を労うと同時に印象的な挨拶を行いました。特に東京都体育館に開催された東京都下1万名の、青少年の歓迎大会における挨拶は、各国代表並びに日本の青少年にもこの運動の重要性を認識せしめるために大きな役割を果たすものでした。なお閉会式においては、この会議がひきつづき毎年アジア各国において開催されることを切望すると演説すれば、これに呼応して、インドのカピール代表は、明年11月インドで第二回をと名乗りをあげ、つづいてマラヤ、イスラエルの立候補と第四回まで決定するという状態でした。
posted by ss at 18:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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